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西高野街道ガイド

 平安遷都後の延暦15年(796)に紀見峠越えの新しい道が開かれその後、弘仁7年(816)には、空海が高野山を開いたので、この街道はますます重要性を増し沿道の村々は発展しました。
 高野山に参る道には、初めは山城国(京都府)から洞ヶ峠を越えて、河内国(大阪府)に入り生駒山脈の西麓を南に下って、紀見峠から慈尊院につき、高野山町石道をのぼって大門へ通じる東高野街道が発達しました。その後、大坂からの街道は、平野から松原を経て河内長野に出る中高野街道と堺から狭山を経て河内長野に至る西高野街道が開け、江戸時代(1603〜1867)には大変賑わいました。また江戸時代末には西高野街道には旅人の便宜をはかるために一里ごとに道標石が堺から高野山の女人堂まで13基建てられました。
 西高野街道は平安時代末から鎌倉時代初期に開かれ、室町時代には高野聖の納骨や庶民の参詣の道となり、江戸時代には天下の台所といわれた大坂、堺の町人の米・酒・綿など通商の幹線道としてにぎわい全盛期をむかえました。明治35年(1902)堺市草尾の辻に大阪府が建立した道標に「西高野街道」と刻んでいるのをみても、この道の繁栄ぶりを伝えています。
 現在、西高野街道の起点は堺市役所近くの大小路橋で、高野山女人堂とを結び、その間に堺・榎元町の十三里道標石から高野山神谷の一里道標石まで、ほぼ1里(4km)、ごとに13基の里石が建ち、すべて現存しています。安政4年(1857)の2月から9月にかけて建立したものです。

 13本の里石道標の建立を発起(発願)したのは、河内、茱萸木村(現大阪府狭山市)の百姓人・小佐衛門・五兵衛の二人ですが、その素性は全くわかりません。
 里石の石材は花崗岩で、高さは地上より約150cm前後、幅24?位の直方体の四面に、女人堂までの里数、建立年月、発起人両名の名、施主(建立寄進者)名、そして「南無大師遍照金剛」と刻み同じ形式でつくられています。施主はすべて河内国の人々で、一人で寄進したもの、複数の人によって建立したものとさまざまです。発起人の地元茱萸木村の十里石は、両名に敬意を表してか「村中」によって建立しています。
 小佐衛門と五兵衛がどのような方法で勧進したのか不明ですが、堺市関茶屋の十二里石は四人の世話人で浄財を集めて建立、橋本市東家の四里石は一族中で建立するなど、施主名から勧進の方法を推測することができます。
 里石道標石が建立される少し以前の弘化3年(1846)、大坂の町人の「高野より吉野・長谷寺参詣の記」という旅日記がのこっています。それによると3月19日正午前に大坂を旅立ち、堺から西高野街道に入り三日市(河内長野市)の油屋庄兵衛で一泊、翌20日雨降りのなか出発、紀見峠(橋本市)を越え紀の川を渡り三軒茶屋(橋本市賢堂)の松屋惣八で昼食、不動坂を経て高野山で投宿しています。1日半で大坂から高野山へ登る健脚に驚かされます。この旅日記に、道中でいろいろな喜捨を受けた内容を記録しています。巡礼姿の何の面識もない大坂の町人に、行く先々で、むすび一つや二つ、餅一つ二つ、あんころ餅3つと接待を受け、そのうえ草鞋まで頂いているなど当時の街道の人々の厚い心が、この旅日記ににじみでています。このような篤い高野信仰が、里石建立に結びついたものでしょう。

十里から九里

この街道筋の途中で、平野(大阪市)と高野山とを結ぶ中高野街道とも合流します。宝篋印塔、十三仏や晴明塚、行者堂など、ますます民間信仰の広がりと深さを感じる一里になっています。

九里から八里

河内長野駅から三日市町駅まで、ほぼ河内長野市の中心市街地を通過します。再開発された部分もありますが、歴史的な史跡なども数多く残っている界隈です。とくに三日市町周辺は宿場町として栄えたこともあって、情緒と風情のある街道筋が残っています。


八里から七里

この一里間は、時折、国道371号線と交わって、旧街道の趣きはあまり感じられません。ただ庚申堂や、石仏寺、御所の辻、松明屋など、名所旧跡は数多く残されています。

七里から六里

南北朝時代の古戦場となった出合ノ辻、神武天皇の東征の舞台となった蟹井神社、真田幸村が決死の脱出を行った紀見峠など、平和と祈りの道であるはずの高野街道も、ときには戦乱に明け暮れた時代がありました。しかし、兵どもの夢の跡を追いながら辿り着く紀見峠は、素晴らしい眺望で、しばし時を忘れます。