「高野街道」とは、11世紀、高野山・熊野三山への信仰が盛んになるなか、藤原道長が高野参詣を行い、これを機に皇族や貴族の間で高野参詣が流行 し、鎌倉時代以降も武士や庶民の信仰が盛んになり、高野山へ参詣する人々が通った道が高野街道であり、江戸時代の絵図などでは「高野街道」のほかに「高野 海道」、「高野道」とも書かれています。
高野街道には、東高野街道、西高野街道、中高野街道があり、この3つの街道が河内長野市内で合流し、紀見峠を越え、各地から多くの人たちが高野山へ向かいました。
そして、河内長野市三日市町には、高野街道沿いに「三日市宿」という宿場がありました。高野街道を通る人々が休憩や宿泊する為の旅籠屋(はたごや)もありました。
多くの人で賑わっていた三日市宿には、菊屋・片屋などの旅籠屋(食事つきの施設のこと)が20軒前後はありましたが、幕府の役人や公家などが宿泊する本陣は、一般の旅行客が宿泊することはできませんでした。三日市宿では、油屋が本陣としての役割をはたしていました。
油屋には、葛城修行中の聖護院宮や五條代官所襲撃前の天誅組が立ち寄ったり、天誅組に殺害された五條代官鈴木源内の家族が宿泊していたことなども記録に残っています。
しかし大正4年(1915)に、高野登山鉄道が三日市から橋本(和歌山県)まで開通したことなどから、三日市宿は次第に役目を終えてゆき、明治23年(1890)、「油屋」は、宿場の本陣としての役目を終えました。(シリーズ河内長野の遺跡7「西代藩陣屋跡」より)