「高野街道」とは、11世紀、高野山・熊野三山への信仰が盛んになるなか、藤原道長が高野参詣を行い、
これを機に皇族や貴族の間で高野参詣が流行し、鎌倉時代以降も武士や庶民の信仰が盛んになり、
高野山へ参詣する人々が通った道が高野街道であり、江戸時代の絵図などでは「高野街道」のほかに
「高野海道」、「高野道」とも書かれています。
高野街道には、東高野街道、西高野街道、中高野街道があり、この3つの街道が河内長野市内で合流し、
紀見峠を越え、各地から多くの人たちが高野山へ向かいました。
そして、河内長野市三日市町には、高野街道沿いに「三日市宿」という宿場がありました。
高野街道を通る人々が休憩や宿泊する為の旅籠屋(はたごや)もありました。
しかし、大正4年(1915)に、高野登山鉄道が三日市から橋本(和歌山県)まで開通したことなどから、
三日市宿は次第に役目を終えてゆきました。
(※シリーズ河内長野遺跡7 「西代藩陣屋跡」参考)