西国三十三度巡礼満願供養塔を越えて、松ヶ丘中町に入ると見えてくるのが松林寺です。
享保年間(1716~1735)に、摂津国住吉村の光明院諦空法印が著した「住吉高野往来」には、「四津の坂 登りて老の 跡見れば 松林寺に鳴 入相の鐘」(いりあいの鐘とは、夕方に打つ鐘のことです)と歌われていて、高野参詣の信者に、その晩鐘が親しまれていたことが記載されています。
「紙本著色 種字両界曼荼羅図」は、慧忍上人の依頼で延命寺(河内長野市神ガ丘)の淨厳上人が描いたもので、市指定文化財になっています。
【絵画・両界曼荼羅図一対】―市・指定文化財―
延命寺開基の淨厳和尚は、河内長野市の生んだ最も偉大な人物の一人で江戸時代中期頃の名僧である。 和尚は晩年江戸に招かれ、将軍綱吉の帰依を得たが、それよりも梵語の研究と真言宗を再興した功績が高く評価されています。この寺に残されたこの金剛界、胎蔵界の種字曼荼羅図は、松林寺がまだ庵の頃に、庵主恵忍和尚の求めに応じて授筆奉写したもので、ときに五十三才、すでに江戸に下っていた頃のことです。 梵語の大家が梵字(種字)で画きあげた真言密教の真髄、佛の本質を所有するものを意味する曼荼羅図一対をこの寺に贈られた意義は誠に大きく郷土研究に当って第一級の資料と言うことが出来ましょう。
<松林寺>
河内長野市松ヶ丘中町