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西高野街道ガイド 九里から八里地図

長野神社

創建年代は不詳ですが、天見川や石川の交流地点であることから、古くから水上交通の要所として栄えていたものと思われます。江戸時代中期頃までは「木屋堂(こやど)の宮」「牛頭天王宮」と呼ばれていましたが、慶応4年(1868年)に長野神社と改称されました。一間社流造の本殿は、国指定の重要文化財で、室町時代後期に建立されたと推定されています。「こやど」とは木材の収集場所を意味する言葉ですが、ここに天見川上流、石川上流の山林から伐採した木材を集めて、石川下流の富田林や古市、陸路では高野街道を通じて堺、平野、大阪、京都などへ出荷されたものと考えられます。「こやどの宮」らしく、境内にある大きなカヤノキは、幹まわり約4メートル、高さ約17メートルほどもあって、これは府下最大の規模で大阪府指定の天然記念物となっています。

長野神社

月輪寺

月輪寺(がちりんじ)と読みます。ご本尊は「やくしさん」(木造薬師如来坐像)で座高は97センチ、檜の寄木造で、光背には40本の光明があらわされています。13世紀初め、鎌倉時代初期の作品とされて、大阪府の指定文化財になっています。本尊薬師如来を安置する本堂の正面に「瑠璃殿」と横書きした額があり、「河州錦部郡三日市村月輪寺縁起」という巻物が伝わっています。それによると平安時代の初め頃に、長野村に住んでいた諸越長者という人が、弘法大師から薬師如来を与えられて大切にしていましたが、長者が亡くなると妻が郷里の三日市に戻り、そこにお堂を建てたのが月輪寺の起こりと伝えています。

月輪寺

烏帽子形八幡神社

烏帽子形山の東斜面中腹にありますが、烏帽子形山という名前は、山の形からそういう風に呼称されたといわれています。本殿は国指定の重要文化財で、棟札の墨書によって、室町時代の文明12年(1480年)に河内源氏の末裔と言われる石川八郎左衛門尉によって建立されたことがわかっています。本殿の向かいには、楠木正成が湊川の戦いに出陣した際に、武運を祈願して植えたとされる樹齢約600年ほどの「楠公武威の松」がありましたが、残念なことに昭和9年(1934年)の室戸台風で倒れてしまいました。現在はその輪切りにされたものが境内に納められています。また、かつては高福寺という天台宗の宮寺があって、楠木正成が奉納した梵鐘がありましたが、後村上天皇が吉野に逃げた際に、その梵鐘を持ち運び、現在は奈良県五條市の堀家に伝えられています。梵鐘には「河内国高福寺鐘康永元年癸午八月楠木氏奉献」(康永元年は西暦1342年)と由来が刻まれています。

烏帽子形八幡神社

油屋跡

昔の旅人は1日に8里(約32キロ)ほどは歩いたといいます。大阪から高野山までは16里で、大阪(または高野山)を朝、出発すると夕方につくのが8里目の三日市町周辺でした。そのおかげで三日市町周辺は宿場町として栄えて、中でも「油屋」は江戸時代に、本業は菜種油の製造、販売を営みながら、高野詣の本陣格の旅籠(旅館)(公家のための宿所。大名宿)としてつとに有名でした。明治以降は旅館として営まれていましたが、戦後のモータリゼーションの発達から高野街道を歩く参詣者が減少して、惜しくも廃業しています。幕末の文久3年(1863年)には、時の油屋の主人・庄兵衛が、天誅組の吉年米蔵、水郡善之祐と親しくしていたのが縁で、天誅組の一団が宿泊しました。油屋で一泊したあと、観心寺、後村上天皇陵、楠木正成公の首塚に参詣して尊皇攘夷の成功を祈願し五條へ向かったそうです。

油屋跡

八里石

油屋跡を越えたあたりから、いかにも歴史街道といった風情のある光景が展開されます。緩やかなのぼり坂で、右へ左へとカーブする街道の両側には、軒下に常夜燈を置いた、虫籠格子に白い漆喰壁の元商家などもあって、宿場町の名残を今に伝えてくれます。郵便局を越えて、再開発で作られた真新しい三日市町駅を越えると、石見川の手前に見えるのが八里石です。

八里石