天野山金剛寺
真言宗御室派大本山で、奈良時代聖武天皇の勅願によって行基菩薩が草設したと言われています。八条女院の祈願所として「女人高野」と呼ばれ繁栄を極めました。
南北朝時代は、南朝方の後村上天皇の政務が、6年間取られることになりました。その後の動乱で戦火に晒されましたが、多数の文化財が残されています。
延命寺
弘仁年間(平安時代)、弘法大師空海が当地を巡礼された時、この地に薬樹・薬草が多く生えているのを見、また、霊水が湧出しているのを見つけて、真言密教を広める霊地と觀想し、自ら地蔵菩薩を作って、本尊としたのが始まりと言われています。 そののち、延宝5年(江戸時代)浄厳和尚が中興、薬樹山延命寺と号しました。
観心寺
西暦701年に役小角(えんのおづぬ)が開き、当初は「雲心寺」と称していました。815年弘法大師が如意輪観音菩薩[国宝]を刻まれ本尊とし、「観心寺」と改め、大師の筆頭弟子実恵(じちえ)が伽藍造営し、高野山と京都の中宿として発展しました。
南北朝時代の武将である楠木正成の幼少時の学問所でもあり、南朝ゆかりの寺として有名です。 寺に伝わる文化財は、和様に禅宗様の建築要素を取り入れた折衷様の代表として有名な金堂 [国宝]や重要文化財の楠公建掛塔など多数あります。
奥河内 滝畑
昔、山深い秘境であった滝畑は、ダムが出来た今、河内長野駅前からバスで30分余のところです。
大阪で一番大きいダム湖を囲む山裾に、村の集落が点在しています。滝畑湖畔観光は、村人がつくる「村おこし」の観光地です。春夏秋冬四季折々の景色と1400年前からの歴史や文化があります。
高野街道
京の都と真言宗の聖地高野山を結ぶ街道、平安時代の天皇、公家の高野参詣や中世から盛んになる武士、庶民の高野参詣に利用されました。
この街道には、主に三つのルートがありました。一つは東高野街道です。
古代の官道のひとつ南海道が前身とも言われています。京から石清水八幡、洞ケ峠、生駒山西麓を南下し、河内国府、富田林寺内町を経て河内長野で西高野街道と合流します。西高野街道は堺の大小路を起点にして仁徳陵の北で竹内街道と別れ、河泉国境沿いを進み狭山のくみの木、河内長野の楠町で中高野街道と合流します。
この西高野街道は京から淀川を下って大坂天満に上陸し、ここから四天王寺、住吉大社を経て堺に出、高野山に向かうコースと考えられます。
中高野街道は平野から真っ直ぐ南下し、松原市阿保、美原町舟渡池、管生神社を経て狭山に向かい河内長野で西高野街道と合流します。更に四天王寺から真っ直ぐ狭山に向かい西高野街道と合流する下高野街道がありましたが、詳細は判っていません。
この西高野街道と中高野街道が河内長野市の楠町で、西高野街道と東高野街道が河内長野駅前の本町で合流し、一本となって紀見峠に向かいました。